トップページ > 静岡才能人 >書道研究 耿栄舎(こうえいしゃ)代表・書家“石田不空さん”
‐まず、お会いしてみて、若くて気さくでビックリしました。
そうなんですよ!書道家というと作務衣にヒゲのおじいさんを想像する人が多くて(笑)僕は至って普通のおじさん?お兄さん?なんですけど。教室ではオヤジギャグばかり言ってますし。イメージ崩れるみたいですね。
個展の時も背広で普通に立っていると、「石田さんは今日はいらっしゃらないんですか?」なんて聞かれて「僕です」って言うと驚かれますね。期待外れなんでしょうね。元々会社員だったから、そんな雰囲気は残っているのかも知れません。
‐エンジニアから転身したそうですね。畑違いの世界からどういう経緯で書道家に?
沼津高専から広島大学の工学部を出て、そこから技術畑で9年。
産業用ロボットメーカーで機械の設計などをしていました。
サラリーマン時代は、残業残業で家族の時間がなくて。子供と触れあう時間もない中で、このままでは自分はやっていけないと思いまして。
まぁただの辞めたい病だったんですけどね。で、10年前に本当に辞めてしまいました。エンジニア以外に何が出来るかと考えたときに、ずっと趣味で続けてきた書道で食べていくぞと。
でも、周りからは子供も3人いたので「何を考えてるんだ」と反対もされましたしバカにもされました。
ただ、妻だけは賛成してくれたので、一番上の子の幼稚園卒園と同時に特に準備もせず独立しました。
‐すごいですね。そこからどうなったんですか?
それがまた。転落人生ですよ(笑)
準備ができてから辞めればいいものを、自分の頭の中だけで教室を開く計画をしてまして。でも実際は個人ではなかなか公民館とか借りられず、どうしようかと路頭に迷いましたね。
生活があるので予備校で数学を教えることになったんですけど、それがまたエンジニア以上に忙しくて、結局辞めまして。本当に崖っぷちでしたね。
何とか賞状の宛名書きなどのバイトをくださった先輩がいたり、家庭教師をすることにしたりして繋いでいきました。
でも、そのお陰で子供と一緒にいる時間はたっぷりあったので、自転車の前と後ろに乗せて公園行ったり、ベビーカーでお散歩したり。お陰で贅沢な時間を過ごすことができました。
ただ、周りから見たら、プー太郎の主夫。怪しい男の人だったんじゃないでしょうか?
‐今のように書道家としてご活躍するには何か転機があったのですか?
コツコツ作品を書いている中で、磐田市の図書館の展示室で個展をやらせてもらえないかと聞いてみたんです。当時たまたま個人でも貸して頂けたので快諾を頂けました。
お陰さまでその個展がビックリするくらい評判が良くて。二度三度と見に来てくださる方や、一度来て良かったからとお友達を連れてきてくださる方がいたり…嬉しかったです。
ぜひ習いたいという問い合わせも多数頂きまして、一気に「書道家の先生」という扱いに変わりましたね。そこまでは険しい道のりでした。